東日本大震災で被災した皆さまが、癒されるように、共に祈りましょう。

江戸川台教会牧師 坂井一富
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雲の中の虹

「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」(創世記9章16節)

 3月11日(金)、教会で入門講座をしていました。「愛が大切です」と語ったとたんに、激しい揺れにみまわれました。その時はまだこれほどの方々が亡くなり、行方不明になり、被災したことは想像もできませんでした。やがてニュースが入り、東北と北関東を襲った津波による惨状に言葉を失いました。原子力発電所の事故はいつ完全に収束できるのか、まだ目処がつきません。

 聖書に記されている最初の大災害は、創世記6章から9章の大洪水です。人が増え始めると、神の前に堕落して、地上には罪が満ちていました。神は、ノアに箱舟を造るように命じました。ノアは神の命令に従い、家族と生き物を雄雌ひとつがいずつ箱舟に入れました。すると大雨が降り始め、大洪水となって、地上を全て覆い尽くしました。絶滅をもたらしたこの洪水が、いつどこで起きたのかはよくわかりません。けれども想定を超える大災害が起こることを、わたしたちに警告しています。大洪水は古い世界の終わりだけではありません。神は新しい祝福をノアと息子たちに与えました。大洪水で新世界が始まり、神はそのしるしとして虹を与えられました(創世記9章16節)。

 アメリカのノンフィクション作家レベッカ・ソルニットは、「災害ユートピア(原題A PARADAISE BUILT IN HELL)」で、サンフランシスコ大地震(1906年)から、ニューオリンズを襲ったハリケーン(2005年)まで、5件の大災害で、被災市民の行動をレポートしています。不幸のどん底にありながら、差別せず困っている人たちに手を差し伸べる人間、見ず知らずの人たちに無償で食事や寝場所を与える人間。知らない間に生まれた助け合いの絆。問題はなぜその「災害ユートピア」がやがて消えてしまい、日常生活に生かされることはないのかと指摘しています。

 今回経験した大災害でも多くの人間が働いています。津波で会堂を失った教会が、残った土台に十字架を立てて礼拝を始めました。教団・教派を超えて支援の絆が生まれています。わたしたちが違いを超えて共に生きていくことが始まりました。これを一過的現象に終わらせていいものでしょうか。大切な人を喪失した人々の悲嘆は、長く続く険しく複雑な道です。大災害という共通の経験で結ばれた被災地教会とわたしたちは祈り続け、共に歩んでいます。祈りの教会が約束の虹です。

機関「あるとす」より


キリストにある自由

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラテヤの信徒への手紙5章1節)。

年末の風物に除夜の鐘があります。亡くなる前日に洗礼を受けた中村草田男(なかむらくさたお)の俳句に「水甕に水も充てけり除夜の鐘」があります。百八の鐘は冬の季語です。

 今年もいろいろなことがあった。忘れたいこともたくさんある。除夜の鐘は12月31日の除夜(大晦日の夜)の深夜0時を挟んで寺院でつかれる鐘で人間の煩悩を除くのだそうです。全て忘れて来年もがんばろう、しっかりしなくては.。

(1)堅く立ちなさい。
 今日の説教は「しっかりしなさい」ですが、全てを忘れて来年もがんばろうではないのです。
パウロがコリントの信徒へ書き送った手紙に「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。」とあります(1コリント16:13)。

 しっかりしなさいとは、信仰によって堅く立ちなさい。片足で目をつぶって立っているようにぐらぐらするな、信仰によりしっかり踏みとどまり続けなさいということです。何への信仰か。律法ではない。キリストの福音、主イエス・キリストへの信仰によって。割礼ではない。キリストに結ばれる洗礼によって。

(2)日本の律法
 5章1節はガラテヤの信徒への手紙の要です。キリスト者の自由について述べています。ガラテヤの教会に起きた異邦人への割礼要求に対する戦いから明らかにされた自由です。そして16世紀に始まった宗教改革の時、ルターは信仰義認の恵みとしてこの自由を強調しました。

確かに今はパウロやルターの時代ではありません。しかしわたしたちは日本的な律法の影響に無関係ではありません。イザヤ・ベンダサンは「日本教」と言いましたが、普段は隠れていますが時々現れてきます。

年末年始は国や地域あるいはご家庭でさまざまな行事があります。ほとんどのご家庭で行く正月三が日の初詣はどうでしょうか。

 家族といっしょに神社や寺へ行くべきでしょうか。それとも神社仏閣の敷地に一歩でも入ったら福音がむなしいものになると拒むべきでしょうか。

キリストの福音に立たずにいると餅も食えないということになってしまいます。わたしがクリスチャンだと知らせるために行かないという選択ももちろんあります。しかし家族との交わりも大切ですね。これらはケースバイケースです。

わたしたちはキリストの福音による自由人です。イエス・キリストへの信仰により救われる希望に堅く立っています。しかも愛によって働く信仰です。家族との交わりも大切にするのです。

できればそうならないですむならとは思いますが、キリストゆえの苦しみを受けることもあるかもしれません。だからこそ福音に堅く立つ必要があります。

どのように振舞ったらよいか聖霊が最善の道をしめしてくださいます。家族との交わりを大切にしながらも、なおキリストを信じ従うクリスチャンだということを証しできるようにともに祈りましょう。

2009年12月27日の説教より